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自由よりも規範を

河野美代子のいろいろダイアリー: 性教育と恋愛と。(かぼちゃの煮物)

確かに、よく読めば、当該エントリは「恋愛等の経験のない人」を揶揄しているわけじゃないと分かるけれども、その方向の批判は、「人を愛せない」非モテにまで到達して、深く突き刺さることがあるわけで、性を語るなら、そこへアクセスすることのかなわない存在のことも考慮に入れて欲しいな、と。

特に、リベラルを標榜するのならなおのこと。

でないと、「できない」者にとっては、その状態を称揚してくれる「規範」の方が素晴らしく思えてしまう。

実際には、多様性を認めてくれる「自由」の方が長期的に有利になるとしても、たまたま、「できない」状態と「規範」の求める状態とが合致していた場合には、そちらへ傾いてしまうことがよくある。

「自由」は「できない」状態を、「多様性のひとつ」として認めてはくれるが、それを、「そのままでいいんだよ」とか、「もっとやりなさい」などと称揚まではしてくれない(というか、それでこその公平な自由なわけですが…)。

例えば、恋愛の「自由」を認める考え方は、「多様性のひとつ」として、それをしない状態も認めてはくれる。
だけど、しようが、しまいが、別にどちらも特に「いいんだよ」とは言ってくれない。しかも、その自由を、「するためだけの自由」と、はき違えて、「しない自由」を認めない人すらいる。

ところが、「規範」の最たるもの、純潔主義は違う。「恋愛をしないこと」「婚前交渉をしないこと」など、今までそれが「できない」状態にあった存在を、「それでいいんだよ」「もっとその状態を続けなさい」と積極的に称揚してくれているように見えるんですよね。

これはしかし、「見える」というだけで、実際のところは、結局それが「やらない」わけではなくて、単に「できない」だけだと分かるやいなや、「通常の精神活動を営めないものは、健全ではない」といったような、別の「純潔主義」によって、容易く否定されてしまったりするわけですが、ともかく、一見有利になれるようには思えるわけです。
これが重要なんですね。

ここからは、完全に論理の飛躍ではありますが、どうせ長期的な見通しなんて、色んな意味で先のない(経済活動や精神活動における資本や支柱を失っている、あるいはそうなりつつあることが多い)非モテな存在にとっては、考えても仕方のないことなんですし、このまま侮蔑されやすい地位に甘んじているくらいなら、短期的にでも有利になりそうなものの方を大いに活用していった方が良いのではないかと、我が非モテレーダーがそう察知しているわけです。

要するに、非モテとしては、その限界を充分に理解したうえで、純潔主義(に限らず、有利になるものは何でも)を大いに利用し、非モテであるままの自己の生存に不利になる存在については、容赦なく排除していった方が良い、というわけなのです。