ブックマークなどで、「何らかの興味関心は惹かれたものの、むしろ積極的に無関心を表明したい」というときの表明方法について考える…。
そこで、「無関心」などのタグ付けをしてクリップする、というのは少し安易すぎる。
それでは、アクティブすぎて「無関心」の表明になっていない。
無関心というのは、飽くまでも分析などの結果「炙り出されてくるもの」でなければならない。
「クリックしたけどクリップしなかったもの一覧を表示」は少し近いかも知れないが、それだと、単に興味がなかっただけのものまで一緒くたになってしまう…。
となると、「クリップ行為とは関係なく、常に “関心/無関心” の評価付けを非公開で行っておき、そのうち、クリップしなかったものを抽出」というのはどうか。
これは要件にかなり近づいた。抽出したものを自動で公開ではなく、もういちど目視チェックして公開/非公開を選ぶ、という方法だとベスト。
いや、まだだ…それだと、「自分の意志でチェックしたもの」に限定されてしまうけれど、防衛的な意味で、「無関心の表明」をしておくのなら、「自分がチェックしそうだと思われてそうなもの」についても表明できるようにしておかなければ。
チェックするタグ、キーワード、ジャンル、といった感じで搾り込んで、関心/無関心をひたすらチェック、その後にそれらをじっくりクリッピング。そんなフロー。
児童ポルノでも性犯罪者でも、人種だろうが何だろうが、罵倒するのは勝手だけど、そのフレーズに非モテなど「モテないこと」を盛り込むのは勘弁して欲しい。
まだ、非モテを罵倒する分には、そう言われたところで、非モテは当事者だからストレートな反論ができるけれど、何か他の属性を罵倒するのに「モテないこと」を用いられると、用語用法についての反論をせざるを得なくなり、結局のところ、メタ戦線ができるだけで、罵倒された属性の当事者にとっても、罵倒側にとっても、「邪魔者」でしかないんだよなぁ。
そこで言えそうなことといえば、せいぜい「ヘイトスピーチは良くないことです」程度の、行為そのものへの言及という、ありきたりなメタ反応でしかないわけで。
だからこそ、状態に関する罵倒は、する側、される側双方にとって、ロクなことにならない、禁断の手法だと思う。
罵倒側にとっては、対象はぼやけるし(かといって煙幕効果もなく)、戦線は間延びするし、罵倒として効果が上がるとも思えない。
被罵倒側にとっても、相手が何を要求しているのか分かりにくく、相手との関係性を見付けづらく、メタレベル以外での反応はしずらく、しかも、敵でも味方でもない別属性の陣営がやってきて、戦線が見えないわけで。
罵倒する際には、「相手がどうあるか」を罵るのではなく、「相手をどうあらせたいのか」を罵れば、闘争もスムーズに進行するのではないかと考えます。
医師や弁護士など、高度な専門職(特に要資格な)に就いている人に対しては、その情報の非対称性を悪用しないという、公的な裏付けと、制度的・社会的な「縛り」、それに、当事者の倫理感の表明とロールモデルの徹底がない限り、何が起きても「自己責任」を求めたいし、その報酬には値しないと断じたい。
彼らに限らず、他人のコアな情報を一方的に握れる立場にある者については、それくらいの「義務」が課せられて然るべきだろうと考えます。
日本では、統合して利便性を高めた方が良いものは分離乱立し、分割して競争を促した方が良いものは統合調整する。
河野美代子のいろいろダイアリー: 性教育と恋愛と。(かぼちゃの煮物) 
確かに、よく読めば、当該エントリは「恋愛等の経験のない人」を揶揄しているわけじゃないと分かるけれども、その方向の批判は、「人を愛せない」非モテにまで到達して、深く突き刺さることがあるわけで、性を語るなら、そこへアクセスすることのかなわない存在のことも考慮に入れて欲しいな、と。
特に、リベラルを標榜するのならなおのこと。
でないと、「できない」者にとっては、その状態を称揚してくれる「規範」の方が素晴らしく思えてしまう。
実際には、多様性を認めてくれる「自由」の方が長期的に有利になるとしても、たまたま、「できない」状態と「規範」の求める状態とが合致していた場合には、そちらへ傾いてしまうことがよくある。
「自由」は「できない」状態を、「多様性のひとつ」として認めてはくれるが、それを、「そのままでいいんだよ」とか、「もっとやりなさい」などと称揚まではしてくれない(というか、それでこその公平な自由なわけですが…)。
例えば、恋愛の「自由」を認める考え方は、「多様性のひとつ」として、それをしない状態も認めてはくれる。
だけど、しようが、しまいが、別にどちらも特に「いいんだよ」とは言ってくれない。しかも、その自由を、「するためだけの自由」と、はき違えて、「しない自由」を認めない人すらいる。
ところが、「規範」の最たるもの、純潔主義は違う。「恋愛をしないこと」「婚前交渉をしないこと」など、今までそれが「できない」状態にあった存在を、「それでいいんだよ」「もっとその状態を続けなさい」と積極的に称揚してくれているように見えるんですよね。
これはしかし、「見える」というだけで、実際のところは、結局それが「やらない」わけではなくて、単に「できない」だけだと分かるやいなや、「通常の精神活動を営めないものは、健全ではない」といったような、別の「純潔主義」によって、容易く否定されてしまったりするわけですが、ともかく、一見有利になれるようには思えるわけです。
これが重要なんですね。
ここからは、完全に論理の飛躍ではありますが、どうせ長期的な見通しなんて、色んな意味で先のない(経済活動や精神活動における資本や支柱を失っている、あるいはそうなりつつあることが多い)非モテな存在にとっては、考えても仕方のないことなんですし、このまま侮蔑されやすい地位に甘んじているくらいなら、短期的にでも有利になりそうなものの方を大いに活用していった方が良いのではないかと、我が非モテレーダーがそう察知しているわけです。
要するに、非モテとしては、その限界を充分に理解したうえで、純潔主義(に限らず、有利になるものは何でも)を大いに利用し、非モテであるままの自己の生存に不利になる存在については、容赦なく排除していった方が良い、というわけなのです。
「おとなたち」が取り上げたがるもの。
今、尾崎豊的存在がいるのなら、その人はかならずケータイについて歌うだろう。
盗んだIDで荒らし出す。見るあてもないままに。